公開日:2016/07/20 最終更新日:2016/07/20
磁気浮上方式により超高速走行を行うリニアモーターカーの研究開発が始まって、50年余。 大学を卒業後、国鉄に入社し、鉄道技術研究所(前身)で17年間、その後、現在の鉄道総合技術研究所に変わって5年間、この分野の仕事に関わり続けてきた藤江恂治(じゅんじ)さんは、まさにリニアモーターとともに歩んできたエンジニアです。専門はエレクトリカルエンジニアリング(電気工学)で、自らを「電気屋」と呼ぶ藤江さんに、当時のことを振り返りつつ、「エンジニアにとってのモチベーション」について語っていただきました。
――藤江さんが最初にエンジニアになろうと思ったのは、どんないきさつだったんでしょうか? 藤江さん 私はもともと時計屋の息子でして、京都の生まれなんですけど、京都大学の電気工学科(現在の工学部電気電子工学科)に進んだんです。しゃべったりはあまり得意じゃない方でしてね、その代わりに物理や、いろいろと理屈を考えたり探るのが好きで、電気に興味を持ってその分野に進んだんですよ。それで就職のときは、ちょうどSLが電化をしていく時代だったんです。 ――1962年頃ですね。国鉄が鉄道の電化を推し進めていたと。 藤江さん そうです。国鉄の中でもいわゆる幹線が電化していくというタイミングで、これは面白そうだ、電気に関わる仕事ができるんじゃないかと思って入社しました。最初は将来、管理職になるための実習から始まり、工場などでも働いて、それから入社5年後の1967年に、東京の国分寺にある鉄道技術研究所(技研・現在の鉄道総合技術研究所)の車両調査研究室というところに配属されたんです。そこがリニアモーターの研究をやっていたわけですね。 ――リニアモーターの研究開発というのは当時、どんな風に行われていたんですか。 藤江さん 国鉄では、1962年からリニアインダクションモータ(LIM)の文献調査と試作機製作というのが始まっていたんです。いわゆるリニアモーターの一種ですが、これは常電導方式と呼ばれるものだったんですよ。まだ現在のような、超電導を利用した地上10cmまで車両を浮かせられるリニアモーターカーではなかったんです。 ――1962年だと、まだ新幹線も通っていない時代ですか。 藤江さん ええ。東海道新幹線の開業が1964年です。技研でのリニアモーターの研究はその2年前から開始されていたことになりますね。なぜ研究が始まったかというと、200km/hの新幹線が実用化されると今度はその次が必要になる、じゃあ400km/hのものを作ろうという趣旨でしてね。車両調査研究室の室長である宇佐美さんという人が最初にその勉強を始めて、鉄道について先進的な研究を行っていたフランスに留学もしまして。向こうで鉄道の高速化について議論をしてきたそうです。日本でリニアモーターの研究が始まったのはそんなことが契機になっています。 ――技研に配属後は、藤江さんも研究開発を始められたんですね。 藤江さん そうです。私が配属された頃は、技研ではずっとLIM台車による50km/hまでの走行試験というのをやっていたんです。それで、50km/hばかりやっていても仕方ないので、高速の400km/hの試験装置を作って高速試験をしたいということを提案しました。
――その提案は通ったんですか? 藤江さん 通りました。宇佐美さんに言うと「一緒に来い」ということになって本社の機械課長のところに行くことになりました。そこでまた自分の提案について説明をすると、「よしやれ」と。予算もつけてやると言われたんです。 ――それはすごいですね。 藤江さん モチベーションが上がりましたね。というのも、エンジニアにとって最もやる気が出るのは、まず目の前にある課題をどう解決するかを考えることですから。 ――具体的な課題こそに最も心を掻き立てられるということですか。 藤江さん そうです。もちろん、「遠い未来に夢の乗り物を完成させる」という大きな目標も大事ですが、まずは目の前の課題に取り組むことに必死でしたね。 ――藤江さんが提案したその試験装置は完成したんでしょうか? 藤江さん それがね、この試験装置で数々の試験をした結果、この研究開発は成功しなかったんです。専門的になるので詳しい説明は省きますが、常電導方式のLIMでは400km/hは難しいという結論が出ました。 ――えっ、だとすると、そこでモチベーションを失ったりはしなかったんですか。 藤江さん 失っている暇はないですよ。というのもその後に、当時、アメリカで研究されていた超電導を利用したまったく新しい方式があるということがわかりました。これが超電導方式で、当時はまだ未知の最先端技術だったんですが、500km/hを安定的に達成できる唯一の鉄道システムではないかということで注目したんです。それで自分たちで手がけてみようと。 ――すぐにまた新しい課題が生まれたわけですね。 藤江さん そうです。まず車両を浮かせるための基礎試験装置を作り始めたのが1970年です。翌年には装置が完成して試験を行いまして、その結果、当時コンピュータはありませんので計算尺で手計算し、計算どおりのデータが得られました。理論と実験が合致したわけです。 ――それはエンジニアにとっては嬉しいでしょうね。 藤江さん ええ、醍醐味ですよね。考えていたことが実証できたわけですから。今度はその翌年に本社から、超電導磁石を搭載した走行車をLIMに代わるLSM(リニアシンクロナスモーター)推進で浮上走行させるという試験装置の試作を命じられたんですよ。超電導磁石を載せた台車を浮かせて走らせろと。これはね、私は到底できるとは思えなかったんですね。「そんなの無理ですよ」って言ったんです。そしたら30分くらい怒られましてね。職場で、みんなのいる中で。コンチクショーと思いました(笑)。
――それでどうなったんですか? 藤江さん そのときはそれで仕事を終わらせて、帰ったんです。でも帰りの電車の中でね、ちょっと冷静になって考えてみた。アメリカではそういう検討をしているという話を聞いたことがあったんですよ。原理はわかるんです。家に帰ってからもずっと考えていたんですが、だんだんどうやればいいのかわかる気がしてきた、これはできるかもしれないなという気持ちになってくるんですよね(笑)。 ――よく考えてみたらやれるんじゃないかと。 藤江さん やれるかもしれないとね。それから翌日研究所に行って仲間を2人呼ぶことにしたんです。役割分担を決めまして、1週間かけて概要をまとめましたよ。それから言ったんです、「やってみます」と。 ――それはうまくいったんですか? 藤江さん うまくいきました。1971年に作り始めて、完成したのは翌年の1972年です。これはMSL200と後で名付けましたが、失敗を繰り返しながら世界で初めてLSM(リニアシンクロナスモータ)駆動による浮上走行に成功しました。これが鉄道100年の年です。と同時的に本社の方で記念事業の一貫として車両走行公開試験を行うことになったんです。技研構内で3.5tの超電導磁気浮上方式車両ML100を、60km/hで走行させるという計画が組まれたんですよ。公開の初日は国鉄総裁のテープカットによる走行試験を実施して、成功裏に終えることができました。それで実は、最終試験の時、誰も載せるなとの本社からの厳しい指示にも関わらず、同僚とこっそり乗り込んで走らせました。後でばれてしまい、本社の偉い方から何故自分を乗せなかったかと怒られましたがね。(笑)。乗り心地は自分で言うのもおかしいですが、非常に素晴らしいものでした。このML100の後、ML100Aが作られ、宮崎実験線で時速517キロを達成したML500が作られることになり、改良型、新型リニアモーターカーのベースになっていくんです。 ――初期の頃だけでもそれだけの紆余曲折があったという、すごいお話ですね。
前編はここまでです。後編はこちら! 後編「壁にぶつかったとき、エンジニアはどうすればいいのか」